今から考えると、初めて透析を導入した時が一番辛かった。
四年前の冬、なんか体の調子が悪いな、と思って体温を測った。
37度半ば。
体調がどうもおかしい。
過去の経験に照らして、これはインフルエンザかな、と思った。
鼻水も出てないし、咳も出てない、でも、どうにも体が重い。
そこで、翌日、近所の診療所へ。
初めて行く診療所だった。
そこの方針なのだろう、とりあえず、血圧を測りましょう、と言われ、看護婦さんが家庭でもよくある丸い輪っかのついた測定器を出し、そこに腕を入れてスイッチを押す。
腕が締め付けられるが、アラームが鳴って、止まってしまう。
「あら、もう一度」
何度やってもアラーム。
「おかしいわね、じゃあ、こっちで」
と、お医者さんがよく使う、帯を巻きつける形式の機械を取り出し、改めて、測ってみる。
すると、「え!ちょっと待って」と、もう一度、計測。
「あなた、これ・・・_
数字は血圧280を示していた。
「これはインフルエンザじゃないね。採血して調べましょう」
その日は、血を取られ、家に戻った。
翌日、診療所から電話があった。
「結果が出たので、お話があります。こちらに来られますか?」
不安にかられながら話を聞きに行くと、「これは腎臓ですよ。クレアチニン数値が8.5。普通に考えて、透析を考えるレベルです」
透析?
耳を疑った。まさかそんな・・・
俺の親父はガンで亡くなっている。
はじめに発見されたのが、下咽頭がん。
T病院で、すぐ切らなくてはダメですよ。と言われ、
「切ると、どうなるんですか?」
「声が出なくなります」
医師は、簡単に言った。それがやけにシャクに触り、こんな医者に親父を任せてはおけないと、他の治療法を探した。
セカンドオピオンという言葉を知ったのも、この時だ。
しかし、この医者は、セカンドオピニオンを全く提示してくれなかった。
我が家は医者への不信感にいきりたち、何か他に治療法はないものか、と探しまくった。
そして、ある民間療法的な治療法をやっている個人医院を見つけ、こちらに父を移した。
しかし、結果的にはうまくいかず、父の病状は進行し、やむなく他の病院を探したが、「今頃来てもダメですよ」と、カルテを投げられたこともある。
父は三年ほどで他界した。
あの思いは今でも忘れない。
この体験から、僕は医者が大嫌いであった。
だから、健康診断をほとんど受けず、自分の体は自分で守ろうと、食事に気をつけていたつもりだ。
父の遺伝があるかもと、ガンが怖くて、かつて、赤塚不二夫などが試して流行した、野菜ジュースを試したこともあるし、にんじんジュースばかり飲んでいた時期もある。
息子との約束に基づいて、禁煙を始め、50歳からマラソンに取り組んで、四年間でフルマラソン完走を13回達成した。
だから、あえて健康診断は受けなかったものの、自分の健康には自信があるつもりだった。
それが、この高血圧である。
腎臓である。
今考えると、体は確かに無理をしていたかもしれない。
酒が好きで、毎日のように、行きつけのバーでテキーラを飲んで仲間と騒いでも、朝は早朝の仕事のため、2時に起きていた。
そして朝4時から午後2時、3時まで働き、夕方、息子の食事を作り、それから飲みに出ていた。
明らかに睡眠時間が足りないが、それでも、月間100キロほど、ジョギングをしていた。
その状況に自分で酔い、よく頑張ってるな、と、ほくそ笑んでいた。
悦に入っていた。
バカな話である。
診療所に勧められた病院は、M病院。
紹介所を持って行くと、すぐに入院となった。
血圧を測ると、やはり280を超え、その場で、「こりゃ、ダメだ」と、腫れ物に触るように入院させられた。
ここから制限食が始まる。
塩分徹底カットに、米飯はタンパク質を抜いたスカスカのこんにゃくの親戚みたいな物体を食べさせられ、水分制限され、あれもこれもダメ。
まるで、生活の全てを否定されたような入院生活だった。
しばらくすると、医師から告げられた。
「腎臓が末期的症状です。方法は二つです。血液透析と臓器移植です。親族に誰か、臓器を提供してくれる人はいますか?」
この病院の医師は、初めからこの方法しか考えていなかったが、それでも、しばらく食事療法で様子を見ようという僕の希望が入れられ、多少、クレアチニンの数値が良くなったので、一応の退院、定期的に外来で様子を見ようということになった。
家に帰っても、腎臓病患者の食事をネットで購入し、食べ続けた。
あの、こんにゃくみたいなコメに、塩分めちゃ少ないおかず。
どれもこれもスカスカの本当に、ごみみたいな食べ物である。
それでも、なんとか頑張って2週間に一回、外来に通って数値を計り続けた。
一度、クレアチニンが6ぐらいまで行って、「お、数値がいいですね」と言われ、涙を流して喜んだことがある。
しかし、医師は「まあ、今はいいけど、いずれ・・・ね」と浮かない顔。しかも、この病院は、外来の患者を診断する部屋が、透析室だった。
診断している医師の横に透析の機械がある。
透析になりたくなくて、通っている患者に対して、透析室で診察する。
なんとも嫌な雰囲気である。
不信感ばかりが募った。
4回目ぐらいの外来で、告げられた。
「そろそろ透析しないと」
受け入れられなかった。俺はこの医師が大嫌いだった。
なにがあっても、この病院で透析はしたくなかった。
運よく、通っていたバーの飲み仲間に、別の大学病院の偉い先生がいて、この人に頼って紹介状を書いてもらった。
この頃の俺の病状は深刻lで、書いてもらった紹介状も取りに行けないほどの状態。
妻に、紹介状を受け取りに行ってもらって、それを抱えて息も絶え絶え、新しい病院に向かった。
僕が幸運だったのは、知り合いのこのお医者さんが、かなりの実力者だったことだ。
紹介状を持っていくと、病院では、すぐに受け入れてくれた。
しかし、症状がかなり進行していたので、すぐに入院だと言われ、さらに、すぐに透析をした方がいい、ほっておくと命に関わると言われ、もう、ここまでくると、決断もなにもない。
「首からカテーテルを入れて、透析します」の一言。
しかし、診察を受けている先から、やけに寒くて、体はブルブル震えるし、だるさは極地だし、もはや、嫌もなにもなかった。
診察室でいきなり首に麻酔を打たれ、あれよあれよという間にカテーテルを刺されてベッドのまま透析室へ運ばれた。
痛さもなにも会ったものではない。
いや、あまり記憶がない。
僕の透析の歴史はこうして始まった。
そして、一日おいて計2回の首からの透析をし、体調も落ち着いたところで担当のM先生の話があった。
「選択肢は三つあります。もしも提供してくれる人がいれば、腎臓移植。それと腹膜透析、あるいは血液透析です。誰か、腎臓を提供してくれる家族はいますか?」
移植ははなから考えていなかった。
たとえ誰か、家族が腎臓をくれると言っても、嫌だった。
自分が回復するために、家族を危険に晒すのは嫌だ。
腎臓は二つあるので、一つ提供しても大丈夫だというが、そんなの、もしも残った一つの腎臓が逝かれちまったらどうするんだ?
選択肢は、腹膜透析か、血液透析だった。
僕ははじめ、血液透析を選ぼうとした。
なぜなら、血液透析ならば、透析病院に行って行う治療なので、家では、一切、妻に透析の姿などを見せず、迷惑をかけずに済むからだ。
一方、腹膜透析の場合、家で透析液を交換しなくてはならないため、透析液のストックもたくさん保存しなくてはならないし、概ね、1日に3回、各1時間ほど、透析をしているところを見せなければならない。
これは、妻にとって、かなり精神的負担になるだろうと思った。
「血液透析にしようと思います」と言ったところ、担当医の表情は微妙だった。
「え?」という顔だった。
「腹膜透析はね、僕くは、患者さんに与えられたボーナスみたいなものだと思っているんですよ。腹膜透析を選んだ患者さんはね、腹膜には寿命があって、普通、5年程度しか持たなくて、そのあとは血液透析に移行するのですが、こうした患者さんは、もっと腹膜を続けたいと言うんです。でも、そういうわけにはいかないんですが。だから、この5年間は血液透析になる前のボーナス。週に3回、透析のために病院に行く必要もなく、家でできるんですから」
一度、血液透析を始めてしまったら、腹膜透析に戻ることはできないという。
一方、腹膜透析から血液透析に移行することはいつでもできる。
こうして、僕は腹膜透析を選ぶことになった。
腹膜にしろ、血液にしろ、透析を始めると、ほとんど尿が出なくなる。
まずは、尿よ、さようなら。